[ 評論家の西尾幹二氏が死去 「自虐史観」是正に尽力 ] 産経新聞「正論」メンバーで
評論家の西尾幹二(にしお・かんじ)氏が1日、老衰のため死去した。89歳。葬儀・告別式は
家族葬で執り行う。後日、お別れの会を開く予定。東京都生まれ。東京大文学部を卒業後、
同大大学院修士課程修了。静岡大講師などを経て、昭和50年に電気通信大教授に就任した。
ニーチェやショーペンハウアーといった19世紀ドイツ思想史研究の第一人者としても知られた。
作家の三島由紀夫らとも親交を深め、文芸評論家として文壇にも活動の幅を広げた。
先の大戦で日本とドイツの戦争責任を同一視する論調を批判し、戦後補償などについて
保守の立場から論陣を張った。戦勝国が一方的に敗戦国を裁いたとの認識の下に東京裁判の
不当性を訴え続けた。平成6年に第10回正論大賞を受賞した。近現代史を中心に
日本をことさら悪く描く「自虐史観」の是正にも力を注いだ。平成9年には、教科書の正常化を目指して
「新しい歴史教科書をつくる会」を結成し、初代会長に就任。子供たちが自信や誇りを持てる歴史記述は
多くの有識者や財界人らに支持された。つくる会会長退任後も産経新聞「正論」欄に執筆するなど
言論活動を続けた。27年には瑞宝中綬章を受章。著書に「ヨーロッパ像の転換」
「異なる悲劇日本とドイツ」「国民の歴史」など。(産経 2024/11/1 13:17)
[ 死去の西尾幹二氏、昭和末から移民問題に警鐘鳴らす ] 1日に89歳で死去した評論家、
西尾幹二氏は昭和の終わりから外国人の単純労働者導入に慎重論を唱え、平成元年には
著書で「労働鎖国」を訴えていた。テレビの討論番組でも孤立無援の中で問題提起するなど、
いち早く、また一貫して「移民問題」に警鐘を鳴らし続けた。西尾氏の産経新聞への寄稿によると、
ヨーロッパの事情に精通する西尾氏が外国人単純労働者の導入に慎重論を唱え出したのは
昭和62(1987)年。2年後の平成元年には「労働鎖国のすすめ」を出版、版を重ねた。
当時出演した「朝まで生テレビ」でも他の出演者らの激しい野次が飛ぶ中、淡々と持論を述べ続けた。
平成初期、「開国派」の有識者は「発展途上国の雇用を助けるのは先進国の責務だ」などと口にしていた。
そのとき、ある県庁職員が議会で西尾氏の本を手に、こう訴えたという。「牛馬ではなく
人間を入れるんですよ。入ったが最後、その人の一生の面倒を日本国家がみるんですよ。
その対応はみんな自治体に降りかかってくる。私は絶対反対だ」西尾氏は《この人の証言は…
私の本がそれなりに役割を果たしていたことを物語っていて、私に勇気を与えた。私は発言以来、
不当な誹謗や中傷にさらされていたからである》と振り返っている。しかし、その後も政府は
「外国人労働者」に門戸を開き続けた。平成30年には人手不足の業界に「特定技能」という
在留資格を新設。昨年からは家族帯同の永住も可能になる在留資格へと拡大された。
西尾氏は特定技能をめぐる法改正について、当時の産経新聞への寄稿で《人口減少という
国民的不安を口実にして、世界各国の移民導入のおぞましい失敗例を見て見ぬふりをした》と
批判し、こう訴えた。《「多民族共生社会」や「多文化社会」は世界でも実現したためしのない空論で、
元からあった各国の民族文化を壊し、新たな階層分化を引き起こす。…彼らが日本文化を
拒否していることにはどう手を打ったらよいというのか》それから6年。「移民」と日本人の問題に
警鐘を鳴らし続けた碩学は鬼籍に入った。(産経 2024/11/1 15:27)
[ 西尾幹二氏、日本の危険に警鐘鳴らす「カナリア」 ] 「炭坑のカナリア」という言葉がある。
炭坑入り行列の先頭で、ガス漏れを知らせるカナリアのように、いち早く危険を知らせるものを指す。
冷戦期には、戦争などの危険を知らせるカナリアの役割を担うのが、文学者らだという文脈で
よく使われていた。故人は日本にとっての「カナリア」でなかったか。警鐘を鳴らしたのは、
日本という国家、あるいは民族を衰弱させ、溶かしてしまうような危険である。たとえば、
日本を不当に貶める自虐史観である。故人が「新しい歴史教科書をつくる会」(平成9年)を
立ち上げた当時、中学生向けのすべての教科書に「従軍慰安婦」が掲載され、日本軍が
30万人を殺害したという「南京大虐殺」の記述が大手を振るっていた。こうした自虐史観が、
日本人の誇りを奪うものであることは言をまたない。先の大戦は日本が悪かったという思いは、
国防にも悪影響を与える。歴史教科書の不当な自虐的記述は現在ではずいぶんと減った。
間違いなく、つくる会の活動の成果である。安易な「移民」の受け入れにも反対だった。
80年代、労働力不足解消という目的を隠し、「日本の労働市場を開放し、発展途上国の
民生と経済に役立たせる」というヒューマニズムで語られていた移民問題に、
いち早く反対の声を上げた。情報収集に熱心で、さまざまな識者を招いての勉強会も
病を得るまで続けた。そんな姿勢が「カナリア」のような鋭敏さの秘訣だったかもしれない。
なお、名誉のため、付け加えておきたい。「カナリア」のようなか弱さとは無縁で、
エネルギッシュな人だった。(大阪正論室参与小島新一)(産経 2024/11/1 20:55)